「記憶喪失?」
「らしいです」

レノは目を見開いて驚いたような目でを見た。
それは同情とかそういう類の視線じゃなくて、ただ純粋に驚いたようなそんな視線。
は苦笑いを浮かべてコーヒーを飲んだ。

「最初の記憶は、冷たい雨と無機質なコンクリートの感触でした。目が覚めたのはスラムの裏路地。どうしてそこに居たのか、どうやっても思い出せなかった。」

は目を閉じて記憶を辿り始めた。
ノイズのように耳に入る雨の音と、初冬の雨に冷えたコンクリート、それがの覚えている限り一番古い記憶だった。
立ち上がれば軽い倦怠感に襲われた。
外傷はないものの、長い事雨に晒されて居たからか発熱しているようだった。
言う事を聞かない足を引きずって裏路地から出るとそこは荒れ果てた街、スラムだった。

「…最初はね、バーをやってる老夫婦に拾われたんです。5年前だから…14くらいの時かな、自分の年齢も判らないんですけど多分それぐらいの時。捨て子とか行き倒れなんてスラムじゃ珍しくもないし行く宛てがないならここで働けばいい、って言ってくれて」

ふらふらとスラムを歩くに声を掛けたのはロイという初老の男性だった。
聞けば彼はこのスラムでバーを経営しているという。
自分が誰で何処から来たのか、年齢さえも判らないに同情したのか
ロイはにバーの手伝いをして欲しい、と持ちかけた。
行く宛てもなければ自分が何者かも判らないにとっては願ってもない申し出だった。
二つ返事で承諾し、それからの3年間はロイが経営するバーの2階に間借りして住み込みで働きギルを貯めた。

「2年前かなあ…一人ぐらいできるくらいのギルが溜まって、私はロイさんのバーを出ました。それで、伍番街スラムの外れのアパートを借りて、そこで生活を始めたんです。仕事場はロイさんのバーでしたけどね、いつまでも世話になるわけにも行かないでしょう?」

時折コーヒーを飲みながら記憶を辿り話すにレノは何も言わず時折相槌を打った。
記憶喪失、という事が信じられない程、普段のは明るかったから信じられないという気持ち半分。
ただ記憶を辿りながら話すの表情はどこか悲しそうだったから、記憶喪失という彼女の言葉は真実なのだと悟る。

「それで…私がタークスに入った日の前日、仕事帰りに強盗に会いまして。鉄パイプだか何だかで思いっきり頭を殴られた挙句ギルを盗られちゃって…多分、死んだと思ったんでしょうね、慌てて逃げて行きました。」
「…それでセフィロスに拾われたのか、と」
「多分そうなりますね、意識を失う寸前に見えたのは眩しいくらいの銀でしたから」

助けてくれた事には感謝してますよ、成り行きでタークスに入る事になっちゃったけど毎日それなりに楽しいですし、
は続けると穏やかな笑みを浮かべた。
レノはそうか、と小さく返事を返すと視線を窓の外に投げる。
…何故か、笑みを浮かべるを直視することができなかった。

「今度休暇がもらえたら、ロイさんたちに会いに行こうと思ってるんです。ツォンさんがロイさん達に私が神羅に入社した事伝えてくれているんですけど、やっぱり私の口から言いたくて」
「…そうだな、と」
「今まで有難う御座いました、私は元気でやってます、って」

心配していた、ってツォンさんが言ってたし、お土産持って帰ろうかなって思ってるんです。
はそう続けてまたコーヒーを飲んだ。
レノはただそんなを黙って見つめる。心地よい沈黙が二人の間に流れていた。

「……は、」
「何ですか?」
「…思い出したいと思うのか?」
「……過去を、ですか」
「あぁ」
「…思い出したくないといえば嘘になります。でも思い出す事で私が私でなくなってしまう気がして、怖いんです。だから、今はまだこのままでもいいと思っています。時期がくれば思い出すかもしれない事ですし…今が楽しいから、タークスの皆がいる毎日をなくしたくないから、今はまだ過去を知らないままでもいいんです」
「……そうか、と」
「はい」

5年。それがの記憶している人生の全てだと言う事をレノは知った。
それがどれだけ辛い事なのか、過去があるレノには判らなかった。
自分とそう歳の変わらないには聊か残酷だろうと思ってみたが、
目の前にいるの瞳は僅かな哀しみを湛えてはいたもののとても強い意志を秘めた瞳。
まるで野良猫のような、孤独を受け入れた瞳だった。

「…オレで力になれることがあれば遠慮なく言えよ、と」
「…はい」
はもうタークスでオレらの仲間なんだからな、と」

レノが照れ臭そうにそう言えばは泣きそうな笑顔でありがとうとレノに返した。

「頼りにしてます、先輩」

そう言って笑うを見て、胸が締め付けられるような奇妙な感じがした。
……オレは、この感覚を知っている。この、心の底に芽生え始めた感情の名前と意味を、オレは知っている。









(思い出したら遠くへ行ってしまいそうで怖いんだ。きっとオレは君に恋をし始めている。)