「幸村さん」
「?どうなさった、殿…何か不都合でもござったか?」
「あ、いえ…そういう訳ではないんですが…少し、寂しくて」

日が昇り、雀の鳴き声が遠く聞こえる躑躅ヶ崎。
幸村は庭先で日課でもある鍛錬を行っていた。
一息付こうと井戸に向かう途中、声を掛けたのは昨日とは違う薄い緋色の着物に身を包んだだった。

「……寂しい、か……」
「ごめんなさい、折角…お館様も幸村さんも気遣ってくれているのに、我侭で…」
「いや、お気になさるな。記憶を無くしておれば人恋しくなるのは当然」
「……はい」
「……そうだ、もしよければ後で街にでもお連れしよう」
「…いいんですか?」
「無論。殿にそのような顔は似合わぬ」

不安なのは判るが、どうか笑っていてはくれまいか。
そう言う幸村に、ははにかんだような笑みを返す。
どうして親切にしてくれるのか、私は自分が何処の誰なのかも判らないというのに、ここの人たちは…幸村さんと佐助さんは、どうして懐かしいような感じがするのか。
の疑問は尽きなかった。
記憶を無くしたとはいえ、心の奥底に残っているのはやはり政宗への恋慕。
記憶の一切合切何を無くしたにも関わらず、蒼だけは忘れず居たというそれがその最たる証拠。
幸村と佐助の事も、本人すら気付かぬ本能の奥底では記憶している。
だから、幸村と話す事は恐怖ではなかったし、佐助ともそれは同じで。
ただ今のは記憶を無くしている。
だからその懐かしさを恩人への感謝の想いなのだと錯覚しているだけの事。

「…では、八つ時に合わせて参ろう。殿は甘味はお好きであったな?先日も茶店でそう申しておったであろう?」
「え…?あ、はい。」
「そうか。ならばよかった。美味い甘味どころがあるのだ、よければ案内させてくれ」
「はい、喜んで」

が記憶をなくす以前、初めてと出会った日の別れ際に交わした約束を幸村は覚えていた。
こんな形になってはしまったがそれでもその約束を果たし、今はこうして彼女と共に時を過ごせるのだから、それはそれで幸村にとっては幸いだった。

「…では、俺は汗を流して来よう。殿は部屋へ戻られよ」
「はい、待ってますね」
「あぁ」

背を向けたを見送り、幸村もその場を後にした。


* * *


「……違う、のかな」

自室に戻ったは、窓の傍に座り外に広がる緑一色の長閑な景色を見ながら呟いた。
確かに、幸村といると何処か懐かしいような、もしかしたら記憶をなくす以前に知り合っていたのかもしれないという錯覚を覚えるのは間違いない。
けれど彼は“蒼”ではなく“紅”い。
ならば“蒼”は、背を向け、霞がかったように顔の見えない痩躯の彼は一体誰なのか、今のには判らない。
……その“蒼”が、が誰よりも信じ慕っていた、奥州を統べる独眼竜だとは。

「…幸村さんは、暖かい人。佐助さんも、お館様も…。でも、“蒼”じゃない。ここの人達はみんな“紅”い…」

無くした“蒼”は、掠れた低音だけれど心地よいあの声を紡ぐ彼は。

「……貴方は、誰なんですか……」

『 ── 掠り傷だ、心配ねぇよ…』
『でも、でも…っ』
『んな顔すんな。俺は ―― だろ?』
『……っほんとに、ほんとに大丈夫なんですか…?』
『あぁ。ったく、こんな事位で泣くんじゃねぇよ』

「……っ」

時折起こる、フラッシュバック。
それは記憶を無くす以前の、恐らくは自分が一番想っていたであろう“蒼”い彼との睦時の。
その度に、は思い出せない事への申し訳なさと、もしかしたらここに居てはいけないのではないかという疑念に駆られては憔悴する。
思い出せれば楽になれるのに、思い出せないのは何故なのか、それはきっと想い出せば自身が不幸になるかもしれないからだ。
人間は本能で危険を回避する。
の場合は記憶を閉じ込め、何もかもを忘れてしまう事に当てはまる。

「……誰、なの……っ」

忘れちゃいけない人だった、だって過ぎる度に涙が出るの、それくらい私は顔も名前も思い出せない貴方を想っている。
思い出せばこんな思いはしなくて済むのに、思い出せないのはきっと何処かで自身が恐れているから、記憶を取り戻して彼に拒絶されてしまうのが怖いから。
思い出せば楽になれる、けれどそれ以上に辛い現実が待っているのかもしれない。
それなら記憶を無くしたままの夢の中で、ここ躑躅ヶ崎で、時折過ぎる貴方への罪悪感を抱えたまま過ごしていた方がいいのではないか。
はそう考え、両手で顔を覆って俯いた。

「お願いだから…っこれ以上私を苦しめないで……!」

本心か、偽りか。
想うが故に心は迷走し、行き場をなくして彷徨い続ける。
還るべき場所はただひとつ、其処を見つける事が出来るか否か、全ては彼女自身に懸かっている。



* * * 


「旦那っ!」

自室に戻り、着替えを済ませた幸村の背後。
天井裏から降り立った佐助は何時になく慌てた声色で幸村を呼んだ。
幸村が振り返れば佐助の表情は強張っていて、何か良くない事があったのだと察した。

「……佐助か、どうした。そんなに慌てて」
「伊達の旦那が進軍を始めた。予想よりずっと早い、本気だよ」
「…!そうか……」
「右目の旦那も一緒だった。駆逐…もしくは見せしめだろうね」

を手に掛けようとした報復、駆逐戦…つまりは田村に縁のある者全てへの報復、恐らくは断絶を目的とした進軍だろう。
部下からそう報告を受け、急いで躑躅ヶ崎へ戻ってきた佐助だったが、それでも三刻程の時は経っていた。
進軍を始めたのはごく少数、恐らくは伊達軍の中でも名のある重臣と当主である政宗自身の、おおよそに見て20名程。
それが夜明け頃に青葉から北へ向かったというのだから、そう見てほぼ間違いはないだろう。

「……政宗殿も本気、と言う訳か」
「……どうする?」
「聞くまでもないだろう。殿が不幸になるくらいならば甲斐に置く。お館様もそう申しておったであろう?」
「……だよね…ちゃん、何も覚えてないんだもんな…」
「あぁ。」

幸村は一人の女性としてを想っていて、佐助は年の離れた妹のように想っている。
だからこそ、哀しい思い等はさせたくないし、泣かせる事など以ての外。
ただ、記憶を無くしていても笑っていられるようにと躑躅ヶ崎へ連れて来て、これからゆっくりと新しい記憶を作っていってやろうと思っていた。

「…もし、」

…もしも殿が全てを思い出して、それでも尚政宗殿の元へ帰りたいと言ったなら…俺はどうするべきなのであろうな。
天井を見上げそう言う幸村に佐助は答えを返す事が出来なかった。
がそう望むのならそうしてやる事がにとっては幸せで、たった一人の女の為に戦を起こす政宗にとってもそれは同じで。
もしもが飛ばされていたのが奥州でなく甲斐だったのなら、政宗よりも先に幸村に出会っていたのなら、は悲しまずに済んだのだろうか。
答えは遥として計り知れない。
ただ、それでもと政宗が互いに惹かれあっていただろう事は、漠然ながらも確信じみた予想が付いた。

「……さぁ、ね……」
「……そうだな……」
「でも、今ちゃんは甲斐にいる、旦那の傍にいるだろ?」
「あぁ……」
「竜の旦那は多分、ちゃんがここにいる事も嗅ぎ付けるよ。奥州の方に行った偵察が戻らないし、国境のあたりでウチの偵察がやられてた」
「……そう余裕もないという訳か」
「だね…竜の旦那、本気だろうし」

実際の所は既に知られているのだが。
それでもを手に掛けようとした者を註する事を先に選んだのは一種の威嚇、そして宣戦布告。
取り戻す、と。
そう幸村に告げるために。

「………殿は、此処に居て頂いたほうがいいだろう」
「だね…上田に連れ帰って戦に巻き込む訳にもいかないし…かと言って此処も安全とは限らないけど」
「だが、それでも俺といるよりは安全だろう?ここにはお館様もいらっしゃる、殿に被害は及ばぬ」
「…それが得策、かね…」
「あぁ……」

戦を知らぬのなら知らぬままでいい。
穢れないままでいてくれと、幸村はそう思う。
どうか紅蓮の鬼と呼ばれる俺の姿を、戦の狂気に呑まれる自分を見ないでくれと。

「…で、どうするの。時間はないよ」
「…明日か明後日にでも上田に戻るが得策であろう。お館様には俺からお話する」
「…ちゃんには…言えないか」
「あぁ」
「んじゃ俺様は国境に戻るよ。日暮れまでには戻るから、あんま無茶しないでよ?」
「重々承知しておる。」
「あいよ……んじゃね」

音もなく天井裏に消えた佐助を見送ると、幸村は薄い甚三紅(じんざもみ)色の着流しを纏い、部屋を後にした。











セブンスヘブンは




まだ遠い


(楽園は何処?)
(蒼と紅)(どちらを選べば)
(私は幸せに、なれますか?)



幸村寄りで進んでますごめんなさい…
というか、蒼VS紅です…この先も←
オチは政宗なんですが、このままだと幸村が報われなさすぎなので…
アナザーエンド、つまり分岐ですね。
まだ先の話になりますが、番外編的な扱いで幸村オチも書きたい所です。
この先しばらく甘要素が欠片程もなくなりますので悪しからずご了承下さいませー;

→懺悔その2
ここも少し加筆修正。
視点の部分は、会話部分はと呼び方が違ってややこしくてすいません;
呼び方、どーしても外せない事に気付いたんで許してやってください;